サバイディー(=こんにちは)。みなさんいかがお過ごしですか。今日はラオスの生活について、これまで触れてこなかった新型コロナウイルス(以下コロナ)禍中の生活についてお話したいと思います。今までご紹介してきたラオスの織り物や文化、伝統行事など華やかなシーンとは違う、ラオスのリアルな一面を知っていただければと思います。ちなみにここでは医学的なこと、経済的数字のことなどはお話ししません。あくまでその頃のラオスでの生活や個人の感想を綴っていきますので、日記のような感覚でお付き合いください。
最近ようやく日本でも「海外旅行」、「外国人観光客」というワードを耳にするようになってきたのではないでしょうか。もうすでに海外に出られた人もいらっしゃるのでは?ラオスでは日本より一足早く外国人観光客の全面受け入れを再開したので、最近では世界各国からの旅行客を見かけるようになってきました。つい数ヶ月前までは、これまで自由に海外を往来していたのがまるで嘘のような時間でしたね。日本では海外の様子を取り上げるテレビ番組がなくなり、ニュースも限られた国の感染者数の情報ばかり。なかなか海外に触れる機会がない中で、ラオスという小さくて辺鄙な国の状況をご存じの方は少ないのではないでしょうか。そんなコロナ禍の中の一時期を、私たちはラオスで生活していました。
ラオスのコロナ流行時期
ラオスでも新型コロナウイルスは流行りました。他の国と同様に感染者もたくさん出ましたし、残念ながら死者も出ました。しかし多くの国で感染が広がり始めた2020年、この頃はラオスにはほとんど感染者がいない状態でした。というのもラオスは早々と国境を封鎖したので、時々空港で海外からの帰国者から陽性が出るといった程度でした。ですがラオスは中国、タイ、ベトナム、カンボジア、ミャンマーと5カ国との国境を接している国。多くのラオス人が外から持ち込まれることを恐れてマスクを着用し、日本と同様に街中からマスクや消毒液が消えました。それでも日本と比べるとほぼ普段と変わらない生活をしていました。そして世界から遅れること約1年後の2021年4月、ラオスのお正月「ピーマイ」での人の大きな移動をきっかけにラオスでも市中感染が広がることになります。政府がすぐに国内のロックダウン(都市封鎖)を発令し、県同士の往来が禁止。数カ月後にワクチン接種を条件に移動が緩和されますが、最終的に感染はラオス全県に広がってしまいました。ラオスの医療は非常に脆弱で、残念ながら日本なら助かる命が助からないことが多いのが現状です。コロナ前は大きな怪我や病気は隣国タイの病院に搬送されていました。国境が封鎖されたことでタイの医療を受けられなくなり、コロナ感染者だけでなく治療を必要とする多くの人がその影響を受けてしまいました。その後感染者数は増減を繰り返しながら厳しいロックダウンが徐々に弱まり、今もゼロではないものの2022年5月に外国人観光客全面受け入れ再開となりました。
2021年4月のピーマイ(世界はコロナ禍真っ只中)
ロックダウンとは?
さて2021年4月に発令された移動禁止のロックダウン、ラオスでは「明日の朝◯時からロックダウンですー!移動禁止ですー!」という首相府からの通達によって始まります。しかもそれを知るのはなんとFacebookページ(外国人は大使館からのメールにより日本語で知ることができます。ありがたい…)。社会主義国ならではの素早い対応にちょっと感動したほどでした。道という道に検問所が設置され、買い物に行くのも「一家族◯人まで」という制限が設けられました。店舗の営業も制限されて、店内飲食は禁止、学校も休校、スポーツも禁止となりました。また「感染者が出たから〇〇村は出入り禁止」という情報が毎日のように出て、近所の市場の村が封鎖されたこともありました(食糧を買い込んだあとだったので無事でした)。そして感染者が出た村は軍や警察によって完全に封鎖され、住民は買い物に行くにも村長の許可証が必要でした。私の住む村では村長が自主的に「住民以外立入禁止」といった張り紙をして道に通行止め用のロープを張っており、多くの村でこうしたロープや竹の柵が見られ、対策は徹底されたものでした。その頃は毎時間情報を追うことに必死でした。首都の情報は大使館がメールで流してくれるのですが、さすがに地方の情報まではないので、自分でFacebookページをチェックしてラオス語を読解する日々でした。とても深刻なはずなのに、どこか抜けていて笑える部分があるのがラオスらしいなと思いながら、開き直って異国での一人暮らしの緊急事態を楽しんでいたものでした。不安なときは隣に住んでいる大家さん宅にあがりこみ、いつも話し相手になってもらっていました(図々しさ満点です笑)。今となってはこうした生活は貴重な経験だったなと思います。
ロープが張られた村の入口
ラオスで感染するとどうなるの…?
幸いにも私は感染しなかったので実体験に基づくお話ではないのですが、知人やSNS情報によると、流行初期に感染した人はローカルの指定病院に完全隔離。濃厚接触者は家族から友人、訪れた飲食店の店員、すべて検査を受けさせられ、感染者が出た場所は防護服を着た人たちによって徹底的に消毒されます。ちなみに当初ラオスでは感染者の個人情報がFacebook上に公表されていました。名前こそ出ないものの、住んでいる村、年齢、性別、職業、行動歴などがすべて公表されます。その頃感染した友人は、自分だとわかるその情報が投稿された瞬間に電話やメールが鳴り止まなかったと言います。感染者がピークを迎えたときにはさすがに一人ひとりの公表が追いつかなかったのか、人数だけが公表されるようになり、病院が満床のために軽症者は自宅療養へと変わりました。
ショックを受けたことと、強さを感じたこと
ラオスでは観光は大きな産業。外国人観光客がいなくなり、特に観光都市ルアンパバーンでは多くの宿泊施設やレストラン、カフェなどが閉店せざるを得なくなりました。街中は「House for rent(貸家)」の張り紙ばかり。同時に多くの観光業に就く人が職を失いました。中でも私が最もショックを受けたのは、まだラオスが国内ロックダウンになる前にいつも通う織り物の村を訪ねたとき。ここでは主に観光客向けのストールなどを手織りで作っており、村を歩けば織り機の心地よい音が聞こえ、色とりどりの織り物が並んでいるのですが、観光客が来なくなってから織り子さんが織り物をやめてしまいました。村からカラフルな織り物が消え、解体された織り機や埃を被った織り機が放置されていました。もちろん売り先がないのに糸代だけ払っていては生活ができません。織り子さんたちに話を聞くと、「年を取って目も見えなくなってきたからね。ちょうどいい機会だったのよ」と。文化はこうしてなくなってしまうのかと感じた瞬間でした。
では職を失ったラオスの人々はどうするかというと、街で働く人はみんな故郷に帰ります。故郷の実家に帰って家族全員で農業をして暮らします。この織り子さんたちも街から帰ってきた子どもたちを迎えて、自分たちの食べるものを自分たちでつくって暮らしていました。みんな辛いはずなのに「家族で農業しながら暮らしているよ〜」と明るく話してくれるのです。この時ほどラオス人の逞しさを、生きる力を感じたことはありません。
使われなくなって隅に置かれた織り機
ラオスの今
さて今現在はというと、街中ではマスクをしている人をほとんど見かけなくなりました。「通常」の生活が戻ってきています。飲食店は賑わい、子どもたちは学校に通い、新しくビジネスを始める人も見られます。外国人観光客も徐々に増えてきました。特にタイからの観光客が多く、観光地は賑わいを見せています。まだまだコロナ流行前には及ばないですが、どの産業の人もみんな光が見えてきたのではないでしょうか。先ほどお話しした織り物の村では、織り子さんたちが再び織り物を再開していました。カラフルな糸や織り物が並び、村に入れば織り機の音が聞こえてくるようになりました。織り子さんの嬉しそうな顔を見ると、こちらも嬉しい限りです。
色を取り戻した織り物の村
今回はラオスのリアルでディープな一面をお話しました。話題柄、人それぞれいろんなご意見があるので少し避けてきましたが、あまり知られていないラオス鎖国中の生活を覗いていただければなぁと思いMAGAZINEの一記事としました。ただネガティブなお話ではなく、ラオスではこうした状況でもみんな「ぼーぺんにゃん(=大丈夫、気にすることないよ)」とのんびり気ままに前向きに暮らす、ラオスの逞しさを感じていただければと思います。